柴尾慶次
日本高齢者虐待防止学会が、法人化される。そこで思うことを書き留めてみた。
今は亡き津村智恵子先生に導かれ、現場実践の中から、理論と運動をつなげることの大切さを、変わらず続けてきた。そこで生涯のテーマとしてきたことの一つに、包括的虐待防止がある。
それは、家庭や家族の中では、高齢者虐待は、家族の歴史の延長線上のことであり、それまでの関係性が色濃く反映されたものであり、たとえ第三者が介入的支援を行ったとしても、一朝一夕に解決可能な、そのような単純なものではないこと。
NHKの番組に、ファミリーヒストリーというのがあって、ゲストの思い知らなかった先祖や親の生きた時代背景などを、映像を通して再現するものだ。最近、俳優の柳葉敏郎のファミリーストーリーがあって、姉がいるということが知らされた。そこには、親の生きた時代の物語があり、先妻の子どもがいることを、どうしても語れなかった父親が、早逝していた。再婚した母親と、新しい家族。その番組を見て、その織り込まれた人間模様を、解きほぐしていくことが、今回のストーリーでは癒しになっていたと感じる。
しかし、人の人生はそのような癒されるものばかりではないし、まして親子や兄弟の力の構造のような、暴力的な家族関係は、家族の心も蝕むものに違いない。そのような家族の心の変遷が、家庭や家族の虐待の背景、要因としてまとわりついていて、ファミリーヒストリーを根気よくひもといていくことが、本当はこじれた人間関係をもとに戻していく契機としては重要なのだと思う。
研究をする中で、児童虐待やDV、特にこの両者には分かちがたい関係性があり、むしろ包括的に扱った方が、解決の道筋が見えやすいとさえ思う。同じく、障害者虐待や高齢者虐待も、家族の心の歴史をひもとくことが、本当は当事者性を取り戻し、本人たちの望む解決へと導くのではないかと思う。
虐待防止法は、あまりにもその虐待の事実に着目するあまり、虐待の種類を分類列挙して、介入の方法を第三者に教示すること、あるいは虐待と決めつけることで、法の介入を可能とする前提になっている。しかし、その背景、要因である関係性の暴力をまず理解することから、解決の道筋をつけていく努力が、大切なのではないかと思う。そのためには、年齢や障害によって区切る縦割りの法ではなく、それをつなぐ視点や制度が、むしろ解決のためには重要なのではないかと思う。それが、小生が包括的虐待防止に向けて、一番感じることである。
さらに、ウィズコロナの時代を生きる、その意味を再定義すること、つまり「虐待防止とは何を、どのようにするのか」が、いま、私たちに求められている「問い」なのではないだろうか。人と人との関係性の再定義が必要になってきた。距離感のつかめない、近すぎる関係が虐待を生む。キーワードは、「ディスタンス」である。